国家による殺人 オウムと公安

2018年07月22日

生きて虜囚の辱を受けずとは旧軍隊の戦陣訓だがそれにより戦場で兵隊さんが沖縄の洞窟や満州の草原、サイパンのバンザイ岬で民間人が屍となった。それを言った軍の指導者は切腹もせず再度軍備を進める政党の政治家となる。死ぬことを進めておいて自分はいい暮らしがしたいではいかに陳腐な言葉であったか。無駄な死であった。死ななくてもよかった。
兵士や物資の補給を要請されていたのにそれをせず全滅を玉砕と飾っている。圧倒的に不利な状況の中戦意の維持の為、国家による殺人を美化した言葉で隠している。

イスラム国を見るまでもなく宗教と武力は結び付きやすいものだろう。
何故なら宗教が権力側の庇護のもとにあるものを除き社会改革を訴えるその性格上必然であり国家権力との対立は免れない。
江戸時代の終わり全国から二十歳前後の若者が集まり一つの時代を終わらせるのに話し合いましょうと江戸城に乗り込んでも帰ってこれないのだから鉄砲や刀で武力で人を殺しながら変えた。変革には武力という力が必要である。
大本へは 16人拷問死、施設はダイナマイトで爆破され国家神道を脅かす勢力への徹底した弾圧、メディアも一緒になって「非国民」と煽っている。

弁護士一家事件の現場にオウムのバッジが解りやすく落ちていたと報道で流れれば誰でも公安が動き出すなと推察する。その後に武装しだしているとこれも大々的に報道されていた。だが結果は何もしていなかった。これはどうしても不思議である。共産党には国策としてだが、新左翼武闘派にもスパイを潜らせて打撃を与えている。この事件の4年以降に松本サリンも地下鉄事件も起きているのだからその時点で入り込んでいれば違った展開となったことだろう。騒動が起きるのを待っていたのか。大本の弾圧は内務省と軍部の対立があったという。何らかの理由があって深入りしなかったのだろうが甚大な被害をもたらす大事件となった。

オウム真理教の教祖が宗教の力でこの世を変えるため行動したのだと言えば良かったのに何も言わなかった。処刑間際の作り話で遺骨を教団側に返さないのはそれだけ怖いということだろうし裁判で話さなかったのは寧ろ廃人にさせられていたのかとも思えてくる。話されると困ると考える人たちがいたのだろう。
弟子の方々が教団と距離を置くということは自分を否定することだがそうして改心しても死刑となるなら信じた崇高なおしえのもとに信仰に殉じたいと思うだろう。死刑制度は早くなくさなければならない。

生活保護を拒否され「おにぎり食べたい」と書き残して死んでいく人がいる。信者たちの処刑もどちらも国家による殺人である。大本もオウムも高学歴な信者が多かった。ピュアで真面目な青年が理路整然とした教義、真理の言葉に惹かれ精神で自分のみならず世界を変えることが出来ると信じたことは結末を知るだけにそのひたむきさが悲しい。
  米田正之

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