寂しい盆踊り

2016年03月05日

小松菜発祥の地、江戸川区小松川に住み始めたのは今から40年前になる。ちょうど一帯が都の再開発事業決定の後で反対のチラシが撒かれていた。同じ時期近くの化学工場が出した六価クロムが体に悪いと分かりこれも騒ぎになっていた。
すでに大きな工場が移った後の空き地が一抹の寂しさを漂わせていたが小松川は下町では最大の繁華街であったという。私が来たのは昭和50年過ぎで活気溢れるその時代は知らない。すでに錦糸町や新小岩に代わられていたがかつて都電も通り、所狭しと大小の工場がひしめき合い、民家やアパートが軒を連ねる様子が以前の賑わいをしのばせている。赤塚不二夫が新潟から出てきてこの地の工場で働きながら漫画の投稿をしていたという。賑わいの残り香が街に一種の気品を見せている。長屋の軒先に並ぶもう使われてはいないだろうかまどの煙突が静かな夕暮れの色づきはじめた空に影絵のように浮かび上がっていた。

都心から近いのにここだけでしか見られないことがいくらでもあった。暑い日などは自分もそうしたのだが銭湯にパンツ一丁で行ったり、交通量は少ないとはいえ道路上でくさやの匂いを強烈に発散させながら宴会をやっていた。見栄を張らなくいい気取りのない気楽な町であった。私は人生の一時でもその時この地で生活できたことを幸せに思う。
そういう街をはたして再開発する必要があったのか甚だ疑問である。防災が主の目的というが整然と並んだ戸建ての住宅地の方が大火災になるというではないか。小松川の隣に平井という町があるがそのある地区は小松川以上に細い路地に民家がひしめいて千駄木や浅草のような上品で粋がっている商業的下町と違い本物の下町風情であったのが今では瀟洒な家が立ち並んで驚くほどに変わっている。当然再開発地区ではない。小松川も何もしなくても戸建、集合住宅、工場が共存し合えた面白くいい地域となっていただろう。防災ですとかざす錦にいやなものが見えはしないか。
とはいえ私を含め多くの人がこの地を離れた。新しくなったこの地で最初に生まれた子供は三十歳近くになるだろう。時は流れ多くを消していった。ここが故郷となった人たちにはまるで違う風情の街があったとは知る由もない。

私は思い出す。あれは昭和も終わりの夏であったか風に乗って聞こえる炭坑節に誘われ来てみると高速道路下の広場で盆踊りが行われていた。街灯の下、僅かな提灯が飾られたやぐらの周りには20人程の人たちが集っている。もうすでに空き地が目立っていて住人がいないのだ。私はこんなに寂しい盆踊りを見たことがない。宗教的意味合いの盆踊りの代表的な歌である炭坑節は頻繁にあった炭鉱事故で亡くなった人たちの初盆に家の前で歌われたとも聞く。挽歌とも鎮魂歌ともいえるものだったのか。小松川、ここには多くの人たちの生活があった。泣き笑い、失意も夢も希望もあった。暗い広場の美しく悲しい炭坑節はそのひとつひとつをやさしく悼んでいるかのように漆黒の夜空にいつまでも流れていた。
   米田正之

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