時代に合わせて呼吸をするとは

2017年04月16日

時代小説や歴史小説で昭和の初めから40年に渡り活躍され「樅の木は残った」などで知られる山本周五郎は賞というものをもらっていない。特に文藝春秋の主催する文学賞を辞退するにあたり「菊池寛など相手にしていない」と言い切ったという。今生きていれば文春に悪口を書かれたであろうが、なんと痛快、あっぱれな強い信念だろう。だがそういう人は昭和の40年頃までは多くとはいわないが確かにいた。お金が無く貧乏でも尊敬されていた人が近所に居られた。遠い彼方に去って思い出となった。

昼下がりの電車の中、大学生らしき若い男が二人今の首相に「さん」を付けて話している。隔世の感が押し寄せる。昭和44年、東大全共闘と三島由紀夫の討論会で主催する代表で真面目そうな詰襟の学生が三島を思わず「先生」と呼んでしまいあわてて弁明する傍で三島が笑っているという映像が残っている。三島由紀夫を先生と呼ぶのは分かるが、権威あるものを否定しようとした時代「先生」どころか「さん」をも付けないのが常識であった。
先日ある大手新聞に若手のオピニオンリーダー的ジャーナリストが昨年のシールズの活動で首相を「さん」付けで呼ばなかったことが大衆が離れていった原因だと書いていた。津田大介さんの世渡り上手は別にしてそういう時代になっているのだろう。

「時代に合わせて呼吸をする積りはない」と淺川マキは歌ったが信念が生きる原点になれば迷うことはない。大橋巨泉さんがよく言っていた「若い頃は真ん中かむしろ右と言われていたけど同じことを言っても今は左になる」。この右傾化する不平等の時代に何を遠慮することがあろうか。発言していこう。強いものが今享受している甘い権利は弱いものたちが強くなれば奪われかねない。あらゆる手で弱きままにいるよう押さえてくるだろう。時代の変革者は常に先を見通すことができる目と行動力がなければならない。時代の流れを変える感性はまねをする生き方からは生まれない。
全ては監視社会が訪れる前に。
 米田正之

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