人の距離が近かった時

2025年12月14日

私が生まれた年の100年前はペリーの黒船来航の翌年、西郷隆盛や勝海舟の活躍はもっと後になる。それから若い黒柳徹子さんや永六輔さんが関わったテレビの創成期までの驚異的な変化に比べればそれからの70年はそれほどでもないとはいえもうなくなってしまたものや見なくなってしまったものも多く懐かしくもあり感慨深くもある。
街には傷痍軍人が座っていて空を見上げればデパートの屋上にアドバルーンが上がっていた。列車に乗るのに駅の窓口で行き先を告げ切符を買いバスに乗れば車掌さんにこれまた下車する停留所名を告げる。現在のように外に出て一言も発しなくても移動できるのとは違い人と常に関わらなければいけなかった。高度経済成長期、池田内閣の所得倍増計画の頃に小学生になったのだが田舎のこと通学路の途中には見渡す限り水田があり牛が働いていたのだが5、6年生の頃、それは耕運機に代わっていた。道の横の川は梅雨期大雨で溢れ膝の辺りまで水が来ている。昭和30年代の小学生は気合が入っているので学校を休むことは考えられない。泥水の入った長靴をグチュグチュいわせて歩いた。それもいつか護岸工事がされ溢れることも無くなった。
自動車教習所も変わったところだろう。コース上でよく殴り合いがあったという。男は足をけられ、女性は足を触られていた。いやな教官がいると噂になっても教習所はそういうのものだという常識があった。これは少し作り話の気もしないではないが教習が終わって帰った若くて元気のいい自由業の男が日本刀をもって乱入してきたと聞いてもさもありなんと頷かざるを得ない。団塊の世代とそれに続く多くの人たちが免許を一斉に取る頃でいい加減な内容でもそこに行かざるを得なかった。
三つ上の姉は東京本社の金沢支店で事務員をしていたのだがある時こういう歌が今歌われているんだってとメモを見せ歌ってくれた。「春を愛する人は心清き人 すみれのような僕の友達 夏を愛する人は心強き人・・・」 口伝えで広がった国民的叙情歌「四季の歌」であった。数年後,芹洋子が歌うのを見て何故か複雑な思いがあった。
コンビニも宅急便もSNSもない凝縮された細やかな時が流れていた。
  米田正之

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